
はじめに
「原子力の父」「テレビ放送の父」など、数々の異名を持つ正力松太郎。この名前を聞いて、どこか胡散臭さを感じる人もいれば、日本の発展を支えた偉人として記憶している人もいるだろう。
しかし、その実態は極めて複雑であり、彼の人生は、まさに戦後日本の情報・メディア・政治・国際関係の縮図といえる。正力が何をし、どうしてそれが「原子力」「テレビ」「新聞」「プロパガンダ」、そして「マーケティング」と結びつくのかを、時系列で読み解いていこう。
戦前:警察官僚としての顔
正力松太郎は1885年に富山県で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省。特高警察の幹部として、社会主義者や共産主義者の取り締まりに奔走した。治安維持法の施行に関与し、国家による言論統制の実行者となった過去を持つ。
この時点ですでに「情報と権力」の関係に深く関与していたといえる。国民の思想や行動を監視し、国家に都合のよい情報を流通させるというシステムのなかにいたからこそ、のちのメディア戦略にも通じる視点を自然と身につけていたのだろう。
戦後:新聞王としての台頭
戦後、正力はA級戦犯容疑で逮捕され巣鴨プリズンに収監されるも、1947年に釈放される。釈放の背景には、アメリカによる冷戦戦略があったとされる。反共主義者であり、日本の世論形成に大きな影響力を持つと期待された正力を、アメリカが“再起用”したという見方もある。
出所後、彼は読売新聞社の社主となる。当時は発行部数で朝日新聞や毎日新聞に大きく水をあけられていた読売を、大衆迎合型の紙面づくりで急成長させた。政治家や芸能人のスキャンダル、スポーツ、芸能、事件ものなど、わかりやすく「ウケる」記事を徹底的に取り上げ、読者をつかんでいった。
情報の届け方と「共感の設計」において、彼は現代のコンテンツマーケター顔負けの手腕を発揮していた。
原子力とテレビ:国家とマーケティングが交差する
1953年、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で「Atoms for Peace(アトムズ・フォー・ピース)」演説を行い、原子力の「平和利用」が国際的なテーマとなった。これは、核兵器の負のイメージを払拭し、冷戦下のソ連に対抗するためのイメージ戦略だった。
正力はこのタイミングで、原子力政策の中心に躍り出る。1955年には日本の原子力委員会の初代委員長に就任し、原子力基本法の制定に関与。アメリカ政府とCIAからの支援を受け、「原子力は夢のエネルギー」とするキャンペーンを展開していく。
このとき、彼が活用したのが、すでに自身の手中にあったメディアだ。新聞とテレビという、戦後の日本で最も影響力のある2つのメディアを使って、情報の流れそのものを設計した。
プロパガンダとしてのメディア戦略
1953年、正力は日本テレビを創設。民間放送第1号として、国家的イベントの生中継やスポーツ中継などを先駆けて行い、日本人の生活にテレビを根付かせた。
テレビは、新聞と異なり「音と映像で語る」ことができる。つまり、感情に直接訴える力がある。正力はこの点を徹底的に利用した。子ども向け番組や教養番組の中に、原子力の「安全さ」「未来性」をさりげなく、しかし繰り返し訴える要素を組み込んでいった。
こうして「原子力=未来の希望」というメッセージが無意識のうちに刷り込まれ、多くの国民が原発建設に疑問を持たず、「夢のエネルギー」と信じるようになる。
このような手法は、まさに情報操作であり、マーケティングであり、プロパガンダだった。
信じてもらう力を、どうつくるか
正力の情報戦略には、いくつかの重要な要素があった。
まず、専門家の言葉を前面に押し出すことで「正しさ」を印象づけた。自らが専門家でなくとも、権威ある学者や技術者を登場させ、番組や紙面に説得力を持たせた。
また、「発信する場所」を厳選した。読売新聞や日本テレビという、自身がトップに立つメディアで情報を出すことで、情報の信頼性をコントロールした。
さらに、「誰が言っているか」が極めて重要であることを理解していた。国家の科学技術行政を担う大臣として、また大手新聞社のトップとして語ることで、「あの正力が言うなら間違いない」という空気をつくった。
そして何より、膨大な経験値を武器にした。戦前・戦中・戦後を通じて、国家・警察・メディア・政界のすべてに精通した彼だからこそ、多くの人が彼を信じざるを得なかった。
マーケティング視点から見た正力の情報戦略
正力松太郎が行った一連の施策は、今で言えば統合型マーケティング・コミュニケーション(IMC)の最たる例である。
ブランド(=原子力)をどう見せるか、どのチャネル(=新聞・テレビ)で伝えるか、どんなストーリー(=平和・未来・技術革新)を設計するか。これらを一元的にコントロールし、世論の方向を決定づけた。
今のデジタルマーケティングにおいては、オウンドメディアやインフルエンサー、広告、PRなど複数のチャネルを統合してブランドを訴求するのが基本となっているが、その原型はすでに正力が1950年代に実現していたのだ。
いま私たちは、何を学ぶべきか
福島第一原発事故以降、多くの人が「なぜ原子力の危険性をもっと早く知れなかったのか」と感じた。その答えの一端は、正力松太郎の設計した情報構造のなかにある。
彼が構築したのは、ただのメディア帝国ではなく、国家が都合のいい未来像を大衆に信じさせるための仕組みだった。そこには、巧妙なメッセージ設計と感情の誘導があった。
そして、それが極めて高い効果を持ったのは、彼自身が経験に裏打ちされた人物であり、発信者としての信頼・影響力・説得力を兼ね備えていたからにほかならない。
現代において、我々マーケターも情報を扱う立場として、どのように伝えるか、どこまで責任を持つか、誰に届けるかを常に問い直す必要がある。
おわりに
正力松太郎の物語は、決して過去のものではない。情報をどう発信し、どう信じさせ、どう動かすか。その問いは、いま私たちが日々行っているマーケティングやブランディングに直結している。
彼の手法は、国家戦略という巨大な文脈で使われたが、その構造は現代にも通用する。情報に力があることを理解し、その力の使い方を間違えないようにするためにも、正力の生涯と情報戦略を知ることには大きな意味がある。
※この記事は歴史的事実と公開資料に基づき執筆していますが、意見には筆者の視点が含まれています。出典の一部は以下のとおり。
参考文献・資料
National Security Archive(https://nsarchive.gwu.edu/) 上丸洋一『読売新聞と正力松太郎』講談社現代新書 高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』七つ森書館 NHK取材班『プロジェクトJAPAN』NHK出版 原田健一『新聞と戦争』岩波書店